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江戸川区まめ知識 |
一之江名主屋敷
一之江名主屋敷は、江戸時代に一之江新田を開発した名主田島家の居宅。
田島家は江戸時代を通じて一之江新田の名主をつとめてきた。
現存する主屋は、江戸中期の建物として世田谷代官屋敷に対応。
安永年間(1772-1780)に6代目の喜右衛門顕寿のとき改造したまま現在にその姿を伝えている。茅葺屋根の寄棟造りの母屋、入母屋造りの曲がりを組み合わせた鍵形の曲がり屋。周囲に堀をめぐらし、屋敷林、屋敷畑、庭園をそなえた、中世土豪的屋敷。
昭和29年の史跡指定から今日まで、所有者である田島家のご努力により、ほぼ現状が保存されてきている。敷地環境の変化と老朽化がすすんだため、平成元年から平成5年にかけて建造物の復元修理をおこない、平成10年から平成11年にかけて、敷地景観の整備を行う。
田島家には江戸時代の民政史料が647点も残されており、「田島文書」として都の指定を受けている。
⇒一之江新田を開拓した田島図書
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今井の渡し
江戸時代は防衛上の理由から、中川や江戸川に橋を架けることは許されなかった。交通は専ら渡船によって支えられていたが、幕府によって公認されていたのは小岩~市川の渡しのみ。
江戸川筋の「今井の渡し」をはじめ区内の渡しは、生活上の必要性から農作業時のみなど限定条件つきで認められていたもので「農業渡し」であった。
その後今井の渡しは、下総国への要衡として成田参詣の人々に親しまれるようになる。
天保年間(1830~44)ごろの記録を見ると、女は今井を通さず、河原の傍の前野の渡へ廻ると示されている。「入鉄砲に出女」といわれたように、今井の渡しでさえも、女性の通行には監視の目が行き届いていたことが伺える。
なお今井の私前野の渡しは、今井の渡し同様、非公認の渡しで上流の篠崎ポンプ場(東篠崎2丁目)付近にあったといわれる。
明治に入ると、防衛上の交通規制が解かれたが、明治45年に下江戸川橋が架けられると今井の渡しの歴史は幕を閉じる。 |
小岩の渡し
北小岩4丁目の河川敷。房総と江戸を結ぶ佐倉街道が江戸川を渡る際に設けられた渡し場。元和二年(1616)に幕府指定の渡船場となり、舟番所が置かれ、往来する人と物を監視した。
江戸時代は防衛上の理由から、中川や江戸川に橋を架けることは許されなかった。交通は専ら渡船によって支えられていたが、幕府によって公認されていたのは小岩から市川の渡しのみとなる。
番所は後に関所となり、関所付近の街道筋は御番所町と呼ばれ、旅籠や掛茶屋が立ち並び、参勤交代や成田詣での人々で賑わった。関所は河川敷にあり、その先に渡船場があった。御番所町は京成江戸川駅の南の小岩宿の別称。
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おくまんだし
江戸川5丁目にある「下今井熊野神社(熊野社)」に関連する。
熊野神社は宝永年間(1704~1711)創建の旧下今井村の鎮守で、「おくまんさま」と呼ばれていた。「おくまん」とはお熊野からきており、昔から江戸川を上下する舟人の信仰を集め、お宮の前を通る時は帆を下げ、被り物を取って最敬礼で通過しつつ航路の安全を祈ったと言われている。
「だし」は「出し杭」のこと。熊野神社の前の江戸川は川がカーブしており瀬が速んで土地がえぐられるのを防ぐために、杭を打って水勢を弱めていた。
熊野神社前の出し杭付近でとれる水は、練れて澄みおいしい水と評判となり、将軍家では水舟を出して城中に運び「お茶の水」としたのでさらに名が知れるようになる。
当時は、「おくまんだしの水」として水売り舟を仕立て、本所や深川、大島あたりで商売とするものもいたという。また野田の醤油はここの水を使ったので江戸人に馴染みの味になったといわれている
かの松尾芭蕉もここで句を読んでいる。
~「茶水くむ おくまんだしや 松の花 (芭蕉)~ |
蓮根(レンコン)栽培
いまや宅地化し見る影もないが、かつて江戸川区全域では蓮根栽培が盛んで、昔を知る方は「この辺は蓮田ばかりで何にも無かった。」等の話を聞くことが多い。
(歴史)
江戸川区一帯は「蓮根村」と呼ばれるほど蓮根(レンコン)の生産農家が多い地域であった。お盆の頃となると見渡す限りの蓮の葉に覆われるほど、栽培が盛んで、「葛西蓮根」の名は関西や東北市場にまで知れわたっていた。
蓮根栽培の歴史は、江戸時代とも言われているが、本格的になったのは明治以降。
明治時代の初め葛西村宇喜田の田中徳右衛門という盆栽家が、北千住から持ってきた蓮根を親族の細野元吉に試作させても見ると、絶品の蓮根ができた。これが江東3区で営利栽培の始まったきっかけとなる。
特産地となった理由は、農家の努力は勿論のこと、この一帯がこの上ない適地だったことがあげられる。
利根川水系の大小河川が運んできた肥沃な粘土質と、水が枯れない強湿地は蓮根栽培に打ってつけの土地。また多量の肥料がかかる蓮根栽培だが、大都市に近いため、肥料として東京市中からでる下肥が入手しやすかったという条件にも恵まれる。まさに都市と農村を結ぶ見事なリサイクル栽培が行われていた。
柔らかくて歯切れのよい葛西蓮根独特の風味は、見通しがきく縁起物ということもあって、市民に長く愛好されてきたが、昭和50年代に入ると宅地化の流れの中でその姿を消していくこととなる。
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小松菜
鶯菜(ウグイスナ)。一年中出回るが旬が冬なので冬菜とも呼ばれる。
江戸名物「葛西菜」を小松村の椀屋久兵衛が改良して作ったといわれる。種播きから収穫までの期間が短く、年に数回収穫できる。栄養価も高く、ビタミンC、カロチン、特にカルシウムを多く含み野菜の中ではトップクラス。
江戸の雑煮には欠かせないということで需要は多く、小松川一円を始め区内で広く栽培される。
(歴史)
小松菜の名は、享保四年(1719)八代将軍「徳川吉宗」が鷹狩の際、西小松川村(中央4丁目)の香取神社に休んだ時、神主亀井和泉が差し上げるものとてなく、お餅の澄まし汁の彩りに少々の青菜をあしらって差し出したところ大いに歓ばれ、菜の名を尋ねられたが返答に窮していると、「菜に名がないのであれば、ここは小松川、小松菜と呼ぶがよい」と命じたという伝承が残っている。 |
妙見島
東葛西にある船形をしている江戸川の中島。島の周囲はコンクリートで護岸、島の建物のほとんどは業務用マーガリンを主に生産する「月島食品工業」の東京工場。
(歴史)
かつては下総国の国府を流れる太日川の河口であり、交通の要衝だった。付近にはは長島高城があったという説もある。
長島には長島湊があり、国府の外港の1つとして栄え、また長島には文中元年(応安五年 1372)に、香取神宮の河関(灯油料所)があった事が知られている。江戸時代に滝沢馬琴の「南総里見八犬伝」にも登場する。
明治28年千葉県から東京都に編入し、明治後半頃から工場が建ち始め、第一次世界大戦後の昭和初期には工業地帯化した。
(妙見とは)
最古の記録として、南北朝時代貞治元年(1362)に妙見堂が建立されたというものがあり、それが「妙見島」の名前の由来とされる。
妙見とは千葉氏の守護神である妙見菩薩のこと。
妙見は北辰ともいい、北斗七星を指す。千葉周作が己の剣の流儀を「北辰一刀流」と名づけたのも故あること。
妙見信仰は千葉氏が信仰していた日蓮宗とも関わりをもち中山法華経寺を中心に布教が行われていた。お堂の建設は千葉氏が葛西地区へ進出する足がかりだったという説もある。 |
古川親水公園(古川)
日本初の親水公園。江戸川区6丁目から始まり、環状七号線を横切り三角にある新川橋まで、全長1.2km。江戸川の元河道である古川の流れをそのまま親水公園に作り変えたもので、親水公園としては「日本第一号」となる。これを手本として全国的に取り入れられるようになる。
(由来)
古川とは元からあった自然水で、古い江戸川。
新しく運河(新川)が開削されたことにより支川となり、新川に対して「古川」と呼ばれるようになる。
(歴史)
古川は江戸川から下る水路として古くから使われていた。
天正十八年に(1590)徳川家康が江戸城に入ってからは、行徳の塩を江戸に運ぶ重要な水路となり、寛永六年(1629)に幕府が新水路を掘って新川としたので、古川は二義的運輸路になってしまった。
明治・大正・昭和と時代を経るにつれて都市化の波が押し寄せ、市街地化が進み田畑が住宅地に変わっていくと、あれほど大切にされていた川や用水が邪魔となり、埋められたり、コンクリートで蓋をされ暗渠になったりしていった。
区は地域の人々と共に歩んだこの川を何とか川として残せないものかと検討し、水と緑に親しめる新しい公園に転換する計画を立て、昭和49年に親水公園として完成させ、「親水公園」という名を一般に定着させる。
この試みは内外の注目を集め、同年全日本建設技術協会から、建設界の栄誉である「全建賞」を受賞。現在もこの親水公園を越える公園は現われていない。 |
新川
新川は江戸時代に「古川」の流路を一部変更して出来た運河である。
古川は古くからある自然の川で、東側は蛇行しており河川交通網への活用は不便だった。
(歴史)
1590年(天正18年)に徳川家康が江戸に入府すると、1594年(文禄3年)に利根川東遷事業を開始し、河川の改造を始めた。
江戸幕府が成立すると、1629年(寛永6年)に三角渡し(現在の三角橋)以東を開削して、水路を直線化する工事を行った。
最初の目的は行徳塩田の塩を江戸に運ぶことだったが、単に行徳塩ばかりでなく、舟運の重要な川となり、北関東や東北から江戸へ物資を運ぶ幹線河川となった。1632年(寛永9年)からは貨客船の「行徳船」が就航し、近郊の農村の野菜や成田参詣の客なども運ぶようになった。
その後、利根川を経由する航路が整備され、新川を経由し小名木川を通って江戸に向かうルートは、東北地方の年貢米などが運ばれる水運の大動脈になった。
当時旧江戸川の方が水位が高く無風時に船は遡れなかった為か、新川の川岸には味噌・醤油・酒を売る店や「ごったく屋」と呼ばれる料理屋が出来て、曳船する業者も居て賑わったと言う。
昭和に入ると荒川放水路が完成し、新川は姿を変えていく。1928年(昭和3年)に葛西橋、1940年(昭和15年)に浦安橋が完成し、時代は徐々に水運から陸上交通に移っていった。
(災害対策)
新川は葛西地区を水害から守ってきた存在である。
1947年(昭和22年)9月に関東地方を襲ったカスリーン台風は上流部に大洪水を引き起こし、江戸川区はほぼ全域が浸水した。
しかし洪水は新川で食い止められ葛西地区は浸水を免れた。
(現在)
1992年(平成4年)から東京都による護岸工事・耐震工事が続いており、新川の地下には日本初の河川地下駐車場である新川地下駐車場が作られた。
さらに江戸川区の「新川千本桜」計画も進んでいる。
この計画は新川に1000本の桜並木を植えて、江戸時代の木橋や石積み護岸を再現したテーマパーク的な遊歩道を作り、カフェや地域交流センター(屋外和船ミュージアム)を建てて、はとバスツアーを誘致するという計画。 |
役者寺「大雲寺」(長行山尊称院大雲寺)
西瑞江2丁目にあるそのお寺は「大雲寺」が正しい名称であるが、有名な歌舞伎役者のお墓が多いことから、「役者寺」の方が有名となってしまっている。
・市川羽左衛門(初代~十六代) ・板東彦三郎(三代~六代)
・瀬川菊之丞(初代~五代) ・松本幸四郎(四代~六代)
・中村勘三郎(初代~十三代)
などの名優のお墓が並ぶ。
歌舞伎に興味があるならば知っておくべきお寺となる。
寺の歴史は古く、元和元年(1619年)二代将徳川軍秀忠から寺域3,000坪を賜って浅草に開山。しかし寛文8年(1668)に消失し、その後は本所押上に移転。
当時は行基作という子安観音・伽羅施山地蔵、運慶作という不動明王、空海作という弁財天、恵信作という三尊来迎仏画一幅など重要な文化財が多数あったが、すべて関東大震災の火事で焼けてしまう。
現在の江戸川区西瑞江に来たのは、関東大震災後の大正14年となる。 |
行船公園
北葛西3丁目にある区立公園。
(由来と歴史)
昭和8年土地の東京府議会議員「田中源」が、区民福祉の増進と生活文化向上のための公園用地として東京市に寄付したことにより開園。
行船の名は、田中家の屋号「行船」に因んで名づけられた。
昭和25年には区に地上権・管理権が移管され、同58年に無料で動物に触れられる「江戸川区自然動物園」が園内にオープン。
平成元年には公園北側が整備され、庭池を伴った和風庭園の「江戸川平成庭園」と数奇屋造りの茶室「源心庵」が新たに開園する。区民を主として多くの人が集会や茶会句会などに利用するようになった。
(江戸川自然動物園)
行船公園の中にある環境促進事業団が運営する動物園。
昭和49年の頃はホタルの養殖を始め、当区産のホタルによる「ホタルまつり」が実施されていたがホタルは季節限定動物なため、日頃から子供に夢を与える施設として、同58年5月5日動物園が開設された。
平成6年4月、日本動物園水族館協会への加入が認められ現在に至る。
「人と動物」のふれあいを目的に設立されているため、大型獣ではなく、小型の動物を中心に収集し、展示されている。多くの区民に気軽に楽しんでもらえるよう入園料は無料。入園者数の実に70~80%が区民で占められている。 |
浅間神社
上篠崎1丁目にある大社。「せんげんじんじゃ」と読む。
天慶元年(938)五月十五日の創建といわれ、江戸川区内で最も古い神社。
富士山の神霊として考えられている浅間大神を祀っている。
(由来)
富士山は古くは「福慈神」・「不尽神」と記載されるような霊妙な神山・日本鎮護の神山であった。
しかし奈良時代末から火山活動が活発化し、火山神(浅間神)としての信仰(浅間信仰)として全国に広がった。
「浅間(あさま)」の語源については諸説あるが、長野県の浅間山のように火山を意味するとされる。「あさま」は古称で、もう1つの称「せんげん」は中世以降から用いられたとされる。
(歴史)
天慶3年(940)に平将門が関東において威をとなえると、平貞盛が乱を鎮めるために派遣された。貞盛は将門が降伏するように祈願し、金幣(きんぺい)と弓矢を奉納し武運を祈ったと言われる。
社には、村上天皇(御代946〜967)の御守剣、後花園天皇(御代1428〜1464)の連歌などの御宝物も数多く納められており、平安・鎌倉期より社の崇敬が高かったことが伺える。
江戸時代(文化文政)のころからは、江戸や周辺からの参詣者も増え、講社なども組織されるようになる。
明治から昭和にかけても熾仁親王の神額、三條内大臣藤原朝臣の神額、犬養元総理の額などが奉納されるなど、多くの篤い崇敬が寄せられている。
(幟祭り)
また神社では日本最大の「幟(のぼり)祭り」が今も受け継がれている。
篠崎浅間神社で2年に1度開催される幟祭り。7月1日が例大祭。高さ25メートル、重さは1トンとも言われる大幟を人の力で10本立てる勇壮な祭りとなる。 |
こんにゃく閻魔
文京区の源覚寺の「こんにゃく閻魔」も有名だが、実はわが江戸川区にも「こんにゃく閻魔」は存在する。場所は東瑞江2丁目にある安養寺。
安養寺は、下鎌田村(現在の東瑞江2丁目)にある浄土宗の寺で、永禄十年(1567)の開山といわれている。
閻魔像は仏身約45cmで、江戸時代から「こんにゃく閻魔」と呼ばれている。
歯の病や眼の病気に御利益があるとし、人々の信仰を集めた。
毎月16日に生こんにゃくを供えて、病気平癒を祈る人が多かった。
(由来)
閻魔様は嘘つきの舌を抜くというのはよく耳にするが、実はコンニャクが大好物であるという。
文京区にある源覚寺に鎮座する閻魔様は右目部分が割れて黄色く濁っている。
宝暦年代のころ(1751年〜1764年)、眼病を患った老婆が閻魔大王に21日間の祈願を行ったところ、夢の中に大王が現れ「願掛けの満願成就の暁には、私の両目の内、ひとつを貴方に差し上げよう」と言われ、満願日に老婆の目は回復。しかし、それ以来、大王の右目は盲目となってしまう。
老婆は感謝のしるしとして好物の「こんにゃく」を断ち、それを閻魔様に供えつづけたという話が残っている。
文京区の源覚寺の他にも、各地に閻魔様を祀る閻魔堂はあり、そこでもこんにゃく炊きなど、こんにゃくに関する行事が盛んに行われている。
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善養寺
善養寺(ぜんようじ)は、東京都江戸川区東小岩にある寺院。
真言宗豊山派に属し、大永7年(1527年)の創建と伝わる。
末寺130余りを擁する中本寺格の寺院であり、「小岩不動尊」の別名でも知られている。
境内には天然記念物「影向のマツ」、「天明3年浅間山噴火横死者供養碑」などの文化財を所有。
また境内では、5月下旬に「バラ・サツキ展」、10月末に「菊花展」が開催され、多くの人を集めている。
(天明3年浅間山噴火横死者供養碑)
天明3年(1783年)に起こった浅間山の大噴火では、犠牲になった人馬のおびただしい遺体が利根川から江戸川へと流れ下って善養寺近くの中州などに漂着し、舟の通行にも支障をきたすほどであった。
下小岩村の人々は、その遺体を善養寺の無縁墓地に葬った。十三回忌にあたる寛政7年(1795年)に境内に横死者の供養碑を建立し、永く菩提を弔った。
この供養碑は、昭和48年(1973年)に東京都指定有形文化財となっている。
(影向の松)
ようごうの松と読む。昭和56年区の天然記念物に指定された善養寺にある樹齢600年の日本一の巨松。 高さは8m、枝振り東西30m・南北28mを誇る。
「影向(ようごう)」とは仏や菩薩が衆生済度のためこの世に現れる姿のことで、松が枝を横に双方に広げる様が、母親が両手を広げて子供を迎えるように慈悲に溢れて見えることから「影向」と命名。
昭和54年(1979年)頃に起きた「日本一のマツ争い」で善養寺の名が広く報道される。
「影向のマツ」と香川県大川郡志度町(現さぬき市)の真覚寺「岡野マツ」は、双方とも「わがマツこそ日本一の名木」と譲らず、1年余りにわたって論争が続いていた。
その争いを見かねた大相撲立行司の木村庄之助が仲裁に入り、「どちらも日本一につき、双方引き分け」と裁いた。また地元小岩の出身で、当時日本相撲協会の理事長を務めていた春日野親方も「双方を東西の横綱に推挙する」と庄之助の裁きを後押しし、二人の計らいによって「日本一のマツ争い」は無事に解決を見た。
平成5年、西の横綱松とされた香川県志度町(さぬき市)の真覚寺の「岡野松」が枯死し伐採されてしまったので名実共に日本一となった。
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田島図書
田島図書は、一之江新田の開拓者で名主屋敷の田島家の先祖。田島家の口伝によると、図書は旧豊臣家の家臣で「堀田図書英丈」と名乗っていたが、関が原合戦後逃れて西一之江村大杉の田島庄兵衛に寄寓、田島図書と名をかえて開拓を進め、この地の草分けとなった。寛永二十年(1643)12月25日に没した。 |
石井善兵衛
江戸時代後期の小岩地域に生まれ明治25年にこの世を去る。
善兵衛は上小岩村人。当時この辺りの上小岩村・中小岩村・小岩田村・鎌倉新田(葛飾)の四ヶ村は水に恵まれず、したがって干ばつに見舞われると、たちまち荒廃してしまう地域であった。
そこで善兵衛は江戸川から水を引くことを思い立ち、四っつの村の有力者を説いて回り、明治11年に4ヶ村へ水を引く用水路を完成させ、これらの村々を干ばつから救った。
府知事は善兵衛の功績を賞し「善兵衛樋(とい)」と命名。村人は碑を建て、長文の碑文を刻み賛辞を惜しまなかった。現在も北小岩8丁目に水神碑として石井善兵衛の碑は残っている。 |
北原白秋
明治18年福岡県の醸造屋に生まれ、本名は隆吉。
大正5年7月、市川真間より小岩村大字三谷(北小岩8丁目)に移り住む。当時の白秋は32歳で若く貧乏な時代であった。
1年間、第二の妻江口章子とともに小岩村の乾物商の離れで生活を始め、その建物を「紫烟草舎(しえんそうしゃ)」と名付けた
(北原白秋の詩)
いつしかに夏のあわれとなりにけり乾草小屋の桃色の月
白秋は昭和17年に糖尿病と腎臓病を患い、58歳でこの世を去った。
当時土手の上にあった建物は昭和40年の江戸川堤防の改修工事で取り壊され、現在は、市川国府台里見公園の中に復元保存されている。 |
栃錦(名横綱)
JR総武線小岩駅の改札を出るとすぐにある銅像「栃錦」。44人目の横綱で昭和の栃若時代を作った人気力士の像となる。
(歴史)
大正14年小岩に生まれる。本名は大塚清隆といい下小岩小学校第2回の卒業生。
昭和14年栃木山の春日野部屋に入門し、「大塚」の四股名で初土俵。
努力の甲斐あり昭和30年初場所44人目の横綱となる。177cm、132kgと小型痩身ながら若乃花幹二とともに栃若時代を築き大相撲人気を確かなものとした。
昭和35年に引退し春日野親方として相撲改革に貢献。
理事長の時、両国国技館を建てる。平成2年逝去。 |
篠原伊予(小岩地域の開削)
里見安房守義弘の臣で安西伊予守実元という武士。
1559年(永禄2年)当時、現在の葛西地域はの北条市の重臣太田康資の領地の1つであり、隣国の里見氏と数度に渡り国府台合戦が行われていた。
里見氏が国府台合戦で北条氏に敗れたため、当地姿を隠して農業に従事し、篠原姓を名乗る。
慶長十五年(1610)現在の小岩地域に新田を開発し、「伊予新田」と開削。後にこの地域は「伊予田村」となった。 |
徳川幕府の行った利根川の東遷(とうせん)とは?
徳川家康が行った江戸の都市改造のために行った大規模な河川改修整備事業。
洪水や灌漑などの治水事業を進めるとともに、船による物資輸送の体系をも整備しようとしたもの。この河川の付け替え事業は、世に「利根川の東遷、荒川の西遷」と称されている。
(歴史)
1590年、徳川家康が江戸城に入府すると、区内の大半は幕府直轄とされる。
当時の江戸は、その大半は川や沼などの低湿地帯で、多数の河川が流れ込むために河川の氾濫も多く、それらの中に点在する舌状台地に小規模な集落があるだけの寂しい場所だった。
こうした環境を変え自らの居城と城下町を整備するため、徳川家康は新田開発や水上交通網の開発などの大きな開拓事業を開始する。長い年月をかけて行われたこの工事のことを「利根川の東遷(とうせん)」と呼ぶ。
現在のように利根川と繋がったのは1621年頃のこと。
治水工事や新川開拓が進み、「行徳の塩」を始めとする様々な物資搬入の幹線交通路がつくられ江戸町は発展をとげる。 |
江戸川区はインドの方が多いのか!?
江戸川区の特に葛西は、インドの方が多い地域として知られている。
2010年(平成22年)の統計ではインド人の外国人登録者は、日本全体で約2万2000人おり、そのうち約1割(2336人)が江戸川区に在住していることとなる。
多くがIT技術者ということで、インド本国からの転勤で数年単位で在日している方が多い。ではなぜインドの方が多くなったのか?
これはコンピュータートラブルが懸念された2000年問題の際に、国内には問題に対処だきるだけのシステム・エンジニアが大量に不足。そこで注目されたのがインド。
インドはカレーやヒンズー教のイメージが強いですが、実は近年最も目覚しいIT産業の発展を遂げている国です。英語に堪能であり利点もあり欧米企業、とりわけアメリカでは、インド人のIT技術者を雇うケースが激増。英語力・IT技術・賃金コストなど複数の長所がインドの方に人気が集まる秘密となっている。
日本も2000問題の際に、有能なIT技術者を集めようとインドにアプローチ。その結果たくさんのインド人SE技術者が日本の企業にやってくることとなる。
そうしたインドの方たちが住居として選んだ地域が江戸川区の葛西や清新町となる。
葛西地域が新興住宅地で都心への交通の便が良かったことも理由であるが、もう一つの一つ、良き相談者としてインド人同胞の「父」と慕われる方が西葛西に住んでいたことも理由と言われている。
現在では年に1度、日印交流祭とも言える「東京ディワリフェスタ西葛西」なるイベントを開催し親睦活動が行われている。 |
江戸川区に関連する俳句や川柳
江戸川の紫鯉も夏の夜に集(すだ)く 蛍の明けや奪はん (蜀山人) |
春またでしめつる野辺の小松川三千年も手のうちにあり (蜀山人) |
秋に添えて行かばや末は小松川 (松尾芭蕉) |
茶水くむ おくまんだしや 松の花 (松尾芭蕉) |
降り積みし雪の光や誘ふらむ 浪より明くる天の利根川 (『北国紀行』堯惠) |
雲開く利根の川との見るがうちに こなたやとまり帰る舟人 (『芳雲集』實隆) |
利根川の下は濁りて上澄みて有りけるものを さ寝てくやしき (『夫木抄』) |
初富士の白し葛西の海濁る (滝 春一) |
葛西橋いつ春去りし眺めかな (久保田万太郎) |
わが好むはまぐり汁も葛西風 (水原秋桜子) |
立春の米こぼれをり葛西橋 (石田波郷) |
蓮田植うる田上は葛西囃子の夜 (遠山壷中) |
江戸川に 緋や紫の 浮く日和 (川柳) |
長閑さに蝶の群がる小松川 (川柳) |
鮒添えてやる一之江の医者の礼 (川柳) |
葭(アシ)きりや 船から担ぐ 蓮田肥 (地元の俳句) |
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江戸川区と食用蛙(かえる)の養殖
江戸川区船堀6丁目の法竜寺には「食用蛙の供養塔」がある。
食用蛙は昭和になってから区内に生息するようになった蛙で、体長は15㎝を超え牛のような声で鳴くことがあり「ウシガエル」とも呼ばれる。
湿地帯の多かった当時の江戸川区では繁殖も進み、たくさんのウシガエルの姿を見るようになる。美味だったこともあり外国にも輸出されていた時期もある。
(歴史)
日本には大正7年に、東京帝国大学教授の渡瀬庄三郎が食用として米国から十数匹を導入。それが全国に広がって野生化し定着した。アメリカザリガニはこのウシガエルの餌として輸入されたもの。
昭和25年には年間20トンも収穫されたが、乱獲され数は激減。
食用蛙は昭和の初め頃から区内に生息するようになり、蓮沼や蓮田、田などが多かったので自然に繁殖を続け、昭和25年には年間20トンも収穫され輸出する程に至った。終戦後はこれを捕え加工業者に渡して生計を保つものも現れ乱獲され、その数は激減してしまう。
(食用蛙供養塔)
法竜寺の「食用蛙供養塔」は、当時の東京都食用蛙組合によって、昭和二十七年に建立された珍しいものである。 |
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